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記録と記憶(と結婚式dis)


画像は無関係

例えばすっごくつまらない結婚式に参加したとします 例えばの話ですよ

街中の作られたウェディング施設でキリスト教徒でもないのに教会、知人と知らん人とのキスシーンを拝見、渡された花びらをまき散らしてみる、素人による歌やダンスの余興を鑑賞、お色直しで拍手、察していたサプライズ、とっても美味しいフレンチでこのための3万だと自分を納得、知らん人から知らんお母さんへの知らない出来事への感謝の手紙、ここはどこで私はなんのために存在しているのか分からない空間(祝うため)


そんな結婚式にもし仮に参加していたとしたときの話なんですが、

そういう結婚式は大体、カメラマンが撮っていた式の様子のビデオを、最後即興のムービーで流すことが多いです


すると不思議なことに、式自体に私は感動する場面はなかったんだけど、まるでそこにいる私を含めた全ての人が、心から幸せで楽しそうな感動的なムービーが出来上がっているんです

ムービーのテンポとか切り取り方とか音楽によって一個も嘘はないのにまるで感動的な素晴らしい式だったかのようにムービーという作品には収まっている

式中は一切泣かなかったけど、ムービーでは感動しそうで泣きそうになる


重要なのは「式が感動的だった」ことなのか「感動的な式であったようにみえる」ことなのか?

不思議だ…といつも思ってます。

私以外の全ての人は式自体に感動していたかもしれませんが…



最近ツアー旅行に行きました。

旅行自体は楽しかったんだけど、少しツアーのトラブルがあって私たちは主催側の方にとてもムッとしていました。最後まで主催の人にはムッとして、すこししこりのある旅行となりそのしこりも含めて我々は楽しんだわけですが、

撮影した写真を見返すともうずっと最高にハッピーで楽しそうなんですよ

一個も嫌なことなどないように、最初から最後までめっちゃ楽しそう


そしたら我々のムッとした感情はどこに行ったんでしょうか。

我々が事情を説明せず他の人が写真だけみたら、いい旅行だったね~としか言われないような素敵な写真群です。

写真もムービーも、事実の記録のための装置として生まれたはずなのに、現実より素敵なものとして演出する装置になっている

で、それをみていると実際の記憶が少し薄れていっていい経験だったような気さえしてくる



ということで、私がいつかやってみたいのは、全然仲良くない人とつまらない旅行に二人で行って、写真撮るときだけすっごく楽しそうに振舞ってみる

その撮った写真たちを人に見せて、楽しそー!いい旅行だったね!と言って貰えるか実験

そして私もいい旅行だったかも?と思い始めるか実験


苦痛そ…

無理である



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